ブックタイトルメカトロニクス3月号2019年

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概要

メカトロニクス3月号2019年

44 MECHATRONICS 2019.3   日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う第9回 <戦後のエレクトロニクス分野での技術導入>連 載 戦争直後頃の日本は原材料、素材加工型製品、軽工業製品、雑貨品などが輸出の中心であった。 一方、米国はテレビ、機械、コンピュータ、ジェット・エンジンなどの先進技術商品において優位な位置づけにあり、さらに欧州は鉄鋼、機械、化学などの重工業品に優位をもっていた。 このような状況の時に朝鮮戦争が1950 年に勃発し、我が国に大量の特需をもたらし輸出が増大した。生産が急速に伸びて鉱工業生産指数は1950年には戦前(1935 年)の水準を突破した。これを契機に産業界は資本蓄積をもとに設備の近代化が進められた。 戦後、新たに設立されたエレクトロニクス関連の企業は、表1に示すように“ソニー”、“新光電気工業”、“ケンウッド”、“三洋電機”、“新日本電気”などが設立された。 戦後の高度成長期が始まる頃の1953 年に、三洋電機から噴流式洗濯機SW-53が発売され、それを見た評論家 大宅壮一は1953 年を「家電元年」と名づけたと前回紹介した。1950年代に電化ブームが到来し、高度成長下で家電製品の伸びは際立ち、躍進した。 普及し始めた電化製品に「掃除機」、「洗濯機」、「冷蔵庫」の家電3 品目があり、生活必需品となり、1954 年に「三種の神器」と言われるようになった。そして1960 年前後に“ 掃除機”が“ 白黒テレビ”に代り、「白黒テレビ」、「洗濯機」、「冷蔵庫」が「三種の神器」と呼ばれるようになった。 そして、戦略的な重点的投資の結果、1960 年代には“ 鉄鋼”、“ 船舶”などの重厚長大型産業製品が輸出商品として台頭し、さらに1970~1980 年代には“ 電気・電子機器”、“精密機器” 、“輸送機器”などの加工組立型製品へと進展した。 実は、このような状況になるためには、日本の技術力を高めることが迫られた。家電製品を製造にするにあたって、1950 年代に欧米から家電製品を支える部品・材料も含めて“各種の技術”を導入して生産技術を確立するとともに家電製品の品質向上に、進んだ“ 管理技術”も米国から導入された。 今回は、欧米から導入された話題商品を支えた「外国技術」と「管理技術」が寄与した背景を紹介しよう。1. 外国技術の導入 当時の日本の実力を考えた場合、外国技術の導入なしに製品が作れないという時代でもあった。 例えば、テレビの国産化は外国技術なしでは不可能であった。技術導入は特許を保有する外国企業との技術提携ないしは特許権の実施契約の締結に特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光よって行われたが、それを容易にするために先ず制度の整備から始まった。1-1. 制度の整備 1949 年に制定された「外国為替及び外国貿易管理法(乙種技術援助契約)」があり、国際経済の取引きの基本法として制定された。 外国技術の導入は1950 年に制定された「外資に関する法律(甲種技術援助契約)」によって活発に行われた。「外資法」は、この基本法の特別法として特定の外資導入を積極的に行おうとするものであった。「外資法」は、戦争によって立ち遅れた技術を急速に取り戻すために特定の技術に関して長期の技術援助を積極的に認可し、長期にわたって技術料の対外送金を保証することにより、我が国に対する優良外国資本の投下のための健全な基礎を作ることを目的として制定されたものであった。1-2. 技術導入 1950年の外資法の制定を契機に欧米からの技術が導入され、第二次大戦中の技術開発の空白を埋めた。1952 年末から1953 年にかけて民需用途に技術導入のラッシュが始まった。 例えば、ラジオ・テレビ及び部品だけで127 社の日本企業がRCA社※ 1)と141 件(1952~1966年)の技術提携を契約したと記録されている。1) 特に受像機に関しては、アメリカのRCAが基本特許を保有しており、さらにイギリスのEMI、オランダのPhilips の特許を回避することは困難であったという。 日本初のテレビ受像器を開発したのはラジオと同様、早川電機工業(現 シャープ)であった。基本特許をもつRCAと1952 年6 月に技術提携し、1953 年1月、白黒テレビの発売にこぎつけた(写真1)。NHK東京テレビ局が開局して本放送を開始したのが1953 年2 月なので、その前月に早川電機は白黒テレビを販売したことになる。3) アメリカのRCA、GE、Westinghouseや、欧州のPhilipsから、それぞれ、テレビ、電球、蛍光灯、真空管、トランジスタ、絶縁電線、ケーブルなどに関して技術導入された。表2は技術導入例を体系化したものである。2. 管理技術の導入 戦後、日本からラジオなど多くの電気製品を欧米に輸出して外貨を稼いだ。しかし、日本製品は当時、品質が悪く「安かろう、悪かろう」と言われほど評判が悪かった。マーク・ピーターセンの“日本人の英語”の冒頭で、「当時のアメリカでは、『メイド・イン・ジャパン』といったら、笑うほど安価で、見かけ倒しの品という意味になり、小中学生の流行語であった」と記述している。4) これらの評判の悪い日本製品を「Made in Japan」は欲しいと評判を高めるまでになったのは、米国から品質管理をはじめとする各種の管理技術の「技術移転」によって、学んで品質を高めたことが大きい。それを導いた背景を次に紹介する。2-1. 品質管理技術 1946 年頃、GHQ民間通信部が、電気通信関係産業に管理技術(SQC:統計的品質管理)の一部を導入した。 日本科学技術連盟は1948年頃から品質管理の研究が開始し、1949 年には各種品質管理セミナーを開始した。そして、1950 年には、1945 年に発足した日本規格協会が「品質管理方式研究会」を発足した。表3に示すように品質を高めるために種々、検討された。 1950 年にデミング博士が来日し、品質管理や市場調査に関する講演会を開催し指導した。その後、何度も訪問して指導している。 1954年には、ジュラン博士が経営面から見た品質管理の講習会として「社長重役特別講座」と「部課長コース」を開催し、品質管理の重要性を指導した。この二人の講演は、経営者層に刺激と大きな感銘を与えると同時に、日本の産業の発展に大きく貢献した。 日本科学技術連盟主催の品質管理部課長コース/品質管理セミナー基礎コースには、製造業の開発設計技術者や品質管理部門の技術者の大勢が毎回参加した。日本規格協会も品質管理の考え方を主とした研修コースを実施した。 欧米にて最先端の管理技術を学んだ電電公社の技術者や大学の先生が、これらのセミナーでは講師として指導もした。当時「技術移転」とは言っていなかったがデミング博士やジュラン博士の講習会及び大学の先生や研究機関の技術者による欧米からの管理技術の習得は、「技術移転」の範疇ではなかったかと思われる。当時、日本の産業界が受けた「技術移転」には、意思決定を支援するツールとしてのオ※1)RCA(Radio Corporation of America)1919 年、アメリカ海軍の肝いりで設立された会社で、1920 年、アメリカで世界初の民間ラジオ放送が始まり、ラジオ受信機を発売。1939 年にアメリカでのテレビ試験放送開始に伴い、5~12インチの白黒テレビ受像機(TRK-12、TRK-9、TRK-5、TT-5)を発売し2)、1953 年に通常の白黒放送と両立性のある新しいカラー方式(Compatible RCA 方式)を開発。1954 年に改良を重ねた3 色カラーのブラウン管を開発。後のテレビ方式のNTSC 方式の基礎となる。